お茶の原産地について
お茶の原産地は,中国南部雲南省や,ベトナム,ラオス,ヒマラヤ山系の中国南部,インド・アッサム地方という諸説ありますが,大まかな区分としては,アジア南部の亜熱帯地方の原産ということは,ほぼ確定的です。
日本については,足利義満の時代(1358〜1408)に西南地方の山間部に自生する茶が発見されていたようですが,おそらく中国から持ち帰ったものであると考えられます。現在も「ヤマチャ」と言われる日本固有の茶が九州や四国の山間部に自生しています。
ちなみに,言葉からも,中国が語源であると考えられます。イギリスでは,TeaもしくはTay,フランスではThé,ドイツでもTee,ロシアやアフリカでも「ちゃ」という音に酷似した発音が使われていることも中国が古くから茶の原産地であった可能性が高いことを示唆しています。
日本では知也(ちや),メザマシグサとも呼ばれていたようですが,一般的には中国から伝わった「茶」と書きますね。
「お茶しよう」の語源
「今日,お茶しよう」
そんな言葉も少しずつ使われなくなってきた今日この頃ですが,「お茶しよう」という文化,つまり,喫茶の文化はいつから生まれたのでしょうか。
茶の起源は,中国雲南省が有力だとされていますので,おそらく喫茶の文化も中国が発祥なのかもしれません。しかし,中国の伝説や神話には,毒消しのために,お茶を用いたとあるようです。記録に残るものとして喫茶文化が最初に登場したのは,隋の時代(581年-618年)に,僧侶が盛んに茶を推奨し,皇帝や貴族も愛飲したという記録です。しかし,茶を楽しむというよりは,薬効品としての側面が大きかったようです。
その後,唐の時代には喫茶の風習がますます盛んになったようで,780年に「茶経」という茶の栽培から飲み方,効能などを詳しく述べている書を陸羽が著しているため,多くの人が喫茶文化を楽しんだと考えられています。
日本でも,同時期の729年に喫茶に関する記録が残っている。「奥儀抄」にて,聖武天皇がその誕生日に,4日間に渡り百僧に「大般若経」を購読させたといいます。その2日目に「行茶」と称して,茶を嗜んだという。
このころは遣唐使を通じて,日本に唐の文化が多く流入していたので,それに乗じて,茶の文化なども多く入ってきたのだろうと考えられますね。
当時の茶の製造方法は,中国の製茶方法に倣って,茶を蒸し,搗(つ)いて餅状にし,炒り,乾燥させた,いわゆる磚茶(だんちゃ)製法で作られています。飲む時には,これを砕いたり,削ったりして,粉末状にしたとされますが,この時は,まだ茶を楽しむという文化までは大衆には行き渡っていないと考えられます。しかし,ここに日本における喫茶の起源があるように思われます。
封建制における日本のお茶
日本における茶の再出発
中国から伝わり,一部の上流階級に普及してきたお茶ではあるが,815年の史書への記述を最後に,そこから370年間,茶の記述が途絶えている。
その後,1191年,中国宗で学んだ僧「栄西」が茶の種子を中国から日本に持ち帰り,今の佐賀県神埼市に植えたことから,再び茶に関する記述が見られることとなる。その時に,京の栂尾(とがのお)・高山寺の明恵上人に送り,明恵はそれを宇治,仁和寺,般若寺,醍醐,葉室や,大和,伊賀,伊勢など様々な地域に移し植えられたとある。
要するに,今の茶産地の礎は,栄西と明恵上人によって作られたと言っても過言ではない。その後,栄西は「喫茶養生記」という日本初の茶の専門書を著した。が,当時,茶は,禅僧が眠気防止のために,眠気ざましのために飲むのがほとんどであり,喫茶が一般大衆のものになるにはまだ遠かったようです。
茶文化の大衆への広がり
しかし,北条氏の時代の末期ごろ,徐々に大衆に広がっていた茶が多くの人に普及したのは,「闘茶」という文化であった。この「闘茶」は,茶の良し悪しを飲み比べで決めるゲームで,いわゆる「利き茶」のようなものであった。その後,茶歌舞伎となり,一般大衆に広くお茶が受け入れられた文化となった。
その後,足利の時代に入り,漸く「茶の湯」の形式に発展していった。足利氏は,銀閣寺で茶を愛飲したそうです。その後,徳川秀吉の時代に千利休が茶の湯を大成させ,「茶道」という形になっていった。そしてそこで「禅」と「武士道」が融合し,茶が武士へ,そして大衆へと本格的に広がっていった。
さらに江戸時代に入ると茶の製造方法に様々なバリエーションが出てきており,これまでは磚茶(だんちゃ)製法であったが,蒸し煎茶の製法を,1738年に山城国湯屋ヶ谷村の永谷宗園が考案し,それから100年後の1835年には,山本徳翁が玉露の製法を考案した。こうして,抹茶,玉露,そして煎茶の嗜好も起こった。
このようにして,お茶の文化が様々な形を経ながら,大衆の嗜好する飲み物へ変化してきたことがわかります。
茶産業の発展
茶が産業として発展するようになったのは、1859年に横浜港が開港された際に、180,000kgが輸出品となったことに始まる。この時は、山城を中心として、品質の良いお茶で、仕上げ加工の必要もないほどだったようです。
さらに、長崎の大浦慶の活躍もあり、開国間もない当時の茶の輸出額は、総輸出額の22%を占め、生糸と並んで双璧をなしていたとのことです。
このような背景があり、次第に茶が換金作物として認識されるようになっていきました。
そんな中で、現在まで静岡が茶の産地となったのはこの頃からです。原因として、栽培に適した地であることや、交通の便に恵まれたこともありますが、封建制の解体後、武士が帰農し、移住開拓したことが大きく静岡の茶を発展させることにつながったのです。
明治維新とお茶の歴史は大きく結びついているのですね。
明治初期には、大きく茶産業が発展したことで、栽培や製造にも大きく影響を及ぼしました。それまでは、自然放任されていた茶の栽培でしたが、雑草の土中埋没、菜種粕、糠などが施用されるようになりました。茶の栽培量が増加したのは、このような茶園管理が背景にあると考えられています。
しかしその一方で、粗悪品である“贋造茶(がんぞうちゃ)”も横行し始めたのが、この時期です。時を同じくして、アメリカでは、贋造茶輸入禁止条例が可決されたことで、主たる販路がアメリカであった日本の茶業界は大きな影響がありました。
贋造茶を防ぐために、取締法の制定と茶業組合を通して、不正の茶を取り締まるようにした。しかしそれだけでは、強制力が足りなかったため、1887年に法律と同じ効力を持った茶業組合規則が発布された。
このような法の裏付けにより、国際的な信用力も高まり、海外販路を確保・維持することができたのです。
お茶製造の機械化
治時代に、お茶は産業として大きく発展していったが、当時はまだお茶製造は手作業だったようです。もしかしたら、皆さんの中にもお茶の製造は手摘みと手揉みで製造されるイメージがあるような方もいるかもしれませんね。
しかし、どんなに屈強な男の人でも、一日で5kgのお茶の製造しかできなかったようです。それにも関わらず、茶園の増加や肥料の施用の開始などもあり、茶の生産量は急増していきました。その活発化はいいことだけではなく、日乾製などの不正手段も多く、負の側面も引き起こすことにもつながりました。
それらの問題を解決するために、高林謙三は苦心を重ね、1884年に製茶機械を開発しました。しかし、それは現在の製茶機械とは程遠いもので、手揉みに取って代わるようなものではありませんでしたが、現在につながる大きな土台を作りました。そしてその12年後の1896年に現在の製茶機械の原型とも呼ばれる「高林式租揉機」と呼ばれる、手揉みに代わる租揉機を製造しました。
その後、高林式を応用し、続々と稲葉式、望月式、臼井式などの製茶機が発明された。しかし、まだまだ手揉みの品質には劣っていた機械化ではありましたが、それ以上に生産にかかるコストを減らすことに成功した。
しかし、機械化にはそれまでとはまた違った問題も出てきたようです。今度は、企業的な機械化に進み、大量生産、大量買付による茶葉の大幅な価格の下落が引き起こされるようになりました。現在でも似たような状況はありますが、当時、その問題を解決するために、自社の茶園で栽培し、自社の工場で製造する「自園自製」お茶作りや、その延長にある共同製茶工場が奨励され、品質の向上と生産コストの低下を図っていった。
機械化後の茶業
茶の海外販路拡大に向けた挑戦
茶業が機械化後に伴い、茶の効率的な生産が可能になっていったが、販路が伴わずにいた。それまでは、アメリカへの輸出が大半を占めていたが、インドやスリランカの紅茶が急速に進出していったことを機に、日本の緑茶はそれに対応できなかった。
その後も、販路を求めて紅茶研究や玉緑茶の研究などを行っていたが、安定的な収益を稼ぐ程には至らなかった。その結果、国内消費に向けた需要の調和を図っていった。
茶の科学的な進歩
1915年ごろからの製茶機械化により、一層茶の生産・加工能率が向上し、他にも科学的な進歩がいくつか見られた。1896年には、東京西ヶ原製茶試験場が設立され、現在の茶業試験場の前身とも言える研究施設であった。特に病害虫などの研究の請願書が政府に提出されるほどの要望があったと言える。
他方で、茶の化学的な分野も解明が進んでいった。古くは、栄西が著した「喫茶養生記」では、「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり。山谷これを生ずれば其の地神霊なり。人倫之を採れば其の人長寿なり。[中略] 古今奇特の仙薬なり」と記してあることからも古くから、その薬の効果は期待されていた。
その後、茶のビタミンCやカテキンナなど、現在では多くの人がよく知る効能について研究されたのが、1920年ごろ以降であった。その後、第二次世界大戦後、茶の優良品種は一般的に普及するが、その基礎となる品種改良は明治の中期ごろ、杉山彦三郎という方が、作っている。自らの私財を投げ打って茶樹品種の選抜育成を行ったことで、現在でも多くの茶園で使われている「やぶきた」を選抜し、その増殖方法などの普及を図った。茶樹品種後の育成などが学理的に行われるようになったのは、1877年、多田元吉がインドのアッサム系の茶種を導入し、品種改良の素材を導入したことに始まる。しかし、科学的な品種改良は、昭和初期になって各地の茶業研究機関が実施をしたことでようやく始まった。
第二次世界大戦後のお茶
第二次世界大戦の戦時中は、国内食糧の時給を迫られ、一部の茶園は、強制的に食糧作物に転換させられた。さらに、生産資材、労力などあらゆるものが不足し、茶は急速に衰退した。この頃にさらに共同製茶工場の設置が進められ、茶産業は合理化され、著しく品質の悪化を招くことになった。
1943年、政府は農業団体法を公布し、各種の農業団体を統合した。これにより、約60年間続いた茶業組合も解体された。戦後はさまざまな形をとり変化していき、今日に至っている。
さらに輸出についても、さまざまな変化があった。1945年8月15日、日本が降伏したことで、第二次世界大戦は終わりを迎えた。その後、連合軍は、日本の食糧事情を緩和するために、主要食糧の放出を図ったが、その見返りとして、求められたのがお茶であったため、茶の輸出が再開された。しかし、茶の輸出に関しても混乱は大きく、「やみ価格」と呼ばれる経済事犯も発生した。
戦後間も無くは、茶農家は少なく、茶業は好調であった。茶は、永年作物であることから急速な復興ができず、7年間を経て、漸く茶の生産量が戦前の水準に達した。しかし、1954年をピークに茶の輸出は右肩下がりになり、その間、高度経済成長を遂げた日本は、農業従事者から、他産業に著しく流出した。その結果、動力的再起や大型製茶機などの開発が行われ、人的コストの削減を行い、対応をしていた。また、荒茶や小売関連の技術向上も相まって1965年ごろから、茶の値段が著しく値上がりし、供給不足になるほどであった。
ここまで大きく日本におけるお茶の歴史を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?少しでもお茶に触れる機会が増えて、自分の気持ちと向き合いながら、ゆっくりとした時間を過ごしていくことを願っています。
参考文献
・新茶業全書(1980,静岡県茶業会議所)
・長崎WEBマガジン「ナガジン」発見! 長崎の歩き方 | 長崎の女傑 大浦慶(http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0405/index.html 2023/2/23閲覧)
・埼玉ゆかりの偉人/検索結果(詳細)/高林 謙三(川越市)(2023/3/13 参照)
・明菴栄西 wikipedia(2023/2/27 参照)
・明恵上人 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ(2023/2/27 参照)
・茶経 Wikipedia(2023/2/23閲覧)